コミュニティ

人間関係は、実は自分関係

【人間関係は、実は自分関係】

見栄や世間体に合わせて、自分の心が喜ばないことをやり続けていると、自己抑圧の不満のエネルギ ーは心身を傷め、そのはけ口は他人への不平、文句、悪口、陰口となって出て行く。

ユダヤの格言に「人 は転ぶと、坂のせいにする。坂がなければ、石のせいにする。石がなければ、靴のせいにする。人は、 なかなか自分のせいにしない。」とあるが言い得て妙。他人を責め、否定することで、自己防衛を図ろ うとするのが自我の働きだ。

しかし、他人と自分は合わせ鏡。相手に感じるのは自分の一側面であって、自分の中にないものは反 応しない。認めたくない自分が相手に映って攻撃するが、人を呪わば穴二つ。投げたものが帰ってくる のが、この世の原理。他人とは、自分の潜在意識の中に潜む思い込みや信念を投影させ見せてくれると ても有難い存在と思えば、「人間関係」は実は「自分関係」であったことに気づく。

「隣りの家に蔵が建つと腹が立つ」というが、富も名声も権力も、禍福は糾える縄のごとし、幸と不 幸は縄を縒り合せたように表裏をなす。一見幸福な現象もその内実は不幸であったり、不幸の前触れか も知れない。

病気、ケガ、失敗、貧乏、離別、失業・・・一見不幸に見える出来事も、実は次なる展開 への人知を超えた必要必然のステップなのかも知れない。悪人・愚人のねたみ、そねみ、誹謗中傷も見 方を変えれば、自己鍛錬の糧となり、自己実現へのバネとなる。

人生の達人の言葉は、自己犠牲による社会貢献ではなく、利己性と利他性が甘美に結びついた遊戯三 昧の心境へのヒントを投げかけてくれる。国連上席顧問の北谷勝秀さんは、TAO 塾での講演で

「善い ことをすると、世間の人は貴方は自分勝手で、下心があると言うだろう。でも、善いことはおやりよ。 世間の人は救いの手を持ってはいても、その手を噛むかもね。でも手は差し伸べようよ。世のため、人 のために尽くしても、中傷されるものさ。でも、骨惜しみせずお尽くしよ。」というケント・M・キー スの言葉を教えてくれた。

この世界には、「自分の中にないものには反応できない」という大原則がある。不安、心配、恐怖の 元は、自己の内面にその種が隠されている。そして、「恐怖心」は疑心暗鬼の波となって心を飲み込む。 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」、ススキも怖がって闇で見ると幽霊(敵)に見えてしまう。人類社会を 包む恐怖心が、暴力、戦争を生み、憎しみと復讐、その応酬が負の連鎖を生み続けている。

我々を取り巻く三次元世界の現象は、我々一人一人の「心の世界」を映し出した内面立体映像。幸も 不幸も全ては自分の観方次第なのだ。本当の本当は、他を裁くことも責任転嫁することもできはしない。 この世の仕組みは実に巧妙だ。