プラネタリウムで映し出される星や星座や天の川は、光源がプラネタリウムにある模様をスクリーンに映し出したものであり、勿論、我々はそれをホンモノの星や星座や天の川ではなく単なる映像だとわかっている。
しかし最近、この3次元現象世界こそ実は、プラネタリウムのスクリーンのような内的宇宙を映し出した映像のように思えてしょうがない。
我々は、自分にとって不都合な出来事に遭遇すると、その気に食わない現象を変えよう変えようと努力する。
しかし、映像に過ぎない外的宇宙の現象を、物理的に変えることに成功し、望み通り別の映像(外部環境)を一時的に手に入れたとしても、その新たな出来事(映像の世界)でまた別の気にくわないものに出会っていくことを繰り返してしまう。
映像が映し出されるスクリーンを変えても、光源はまた内的宇宙の模様を正直に映し出してしまうのだ。目に見えない内側の心の世界だが、実は毎日毎日、日々刻々、内的宇宙が外に映し出す映像として見ていることになる。
日々出会う友人、知人、恋人、家族・・・敵も味方も脇役も全て自分で配役したかけがえのないキャラクターなのである。そして、映画を楽しむ真骨頂は先が見えないこと(見えないように設定していること)!
起きてくる出来事に瞬間瞬間、ハラハラ・ドキドキ・ワクワク・シミジミしながら、めい一杯、肉体感覚で味わうことである。想い即実現の時間軸のない「想いどおり」の「あの世」の世界から、時間空間の制約ある面倒な「この世」の世界に遊びに来ている意味・・・まさに「今、ここ」のプロセスにこそに意味があり、「想いどおり」にならない体験にこそ今生の味わいがあるのかもしれない。
目の前に起こる一つ一つの現象は語っている。大丈夫だよ!いつもいつも、貴方が書いたシナリオどおりに事は進んでいる。用意したとおりのちょうどのタイミングで!と。
何かが起こるのも、何も起こらないのも、意味と目的があるのだ。今の自分に必要なことが、必然的に起こっているだけ。一見、ネガティブに見える現象も、その背景には秘められた天の意志、神の愛、自分で書いて来たシナリオが隠されている。
「小さい頃は、神様がいて 不思議に夢をかなえてくれた やさしい気持ちで 目覚めた朝は 大人になっても 奇跡は起こるよ カーテンを開いて 静かな木漏れ日の やさしさにつつまれたなら きっと 目に映る すべてのことはメッセージ 雨上がりの庭で くちなしの香りの やさしさにつつまれたなら きっと 目に映るすべてのことは メッセージ」(荒井由美)
(2008.9.16)
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